JAPANESE OLD TOWN PHOTO COLLECTION
日本の古い町並み写真集
伝統的建造物群保存地区&宿場
周囲の環境と一体をなして歴史的風致を形成している伝統的な建造物群で価値が高い景観で古い町並みの武家屋敷、港町、宿場町、商家町、城下町、山村集落、染織町、里坊群・門前町、茶屋町、製蝋町、島の農村集落などの写真集です。
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竹富町竹富島伝統的建造物群保存地区は,島の中央に位置する3つの集落からなり,白砂の道とグック(石積),屋敷林に囲まれた屋敷に分棟形式の赤瓦屋根の民家が立ち並ぶ昔ながらの農村集落景観を残している。皆治浜(カイジ浜)は別名、星砂の浜。浜には、星の砂があります。
江戸時代中期に整備されたと伝わる。御仮屋と呼ばれる行政庁を中心に道路割をなし,防衛を兼ねた城塁型の区画となっている。また,戸ごとに築かれ庭園は主屋とよく調和し,通りに面した石垣の上に大刈込の生垣が続き,地域全体が自然をよく取り入れた庭園都市的な造りとなっている。
長崎の旧居留地で,明治初期から大正期にかけて住宅や領事館,学校建築が建設された。木造の洋風住宅は桟瓦葺で,海に向かって開放的なベランダを持つ。地区内には石畳の坂や石垣,石溝など,居留地時代からの工作物も残り,往時を偲ばせている。
長崎港を見下ろす住宅地を主とした区域で,幕末から明治にかけての住宅や,宗教建築,港に面して建つ銀行,税関建築等が比較的良好に残る。大浦天主堂(国宝)や旧グラバー住宅(重要文化財)があり,長崎市のシンボル的存在となっている。
江戸後期から明治にかけて建てられた豪商屋敷や町家が軒を連ね,木蠟生産で栄えた町の面影を残す。浅黄色の漆喰で塗り込められた重厚な大壁や平入り造りが特徴。隣家との間に残る小道や水路は大壁や石積などと相まって独特の路地空間を生んでいる。懸魚や虫籠窓など、家々の意匠も変化に富んだ町並み景観を創り出している。
津和野町津和野伝統的建造物群保存地区は,島根県の最西端に位置し,周囲を山に囲まれ,津和野川沿いに町並みが展開する。保存地区内の道や区画は,江戸時代初期に整備されて以降大きな変化はなく,「殿町通り」の旧武家地と「本町通り」中心とした旧町人地が存在する。幕末から昭和初期にかけて形成された石州赤瓦の物群の中に,洋風建築であるカトリック教会などが町並みに変化を与えている。
藩の御用達を勤めた豪商・菊屋家の住宅で、その屋敷は幕府巡見使の宿として度々本陣にあてられました。屋敷は江戸初期の建築、現存する商家としては最古の部類に属し、400年の歴史があります。藩の御用商人・菊屋家は、大内氏時代には武士であったが、毛利輝元公萩城築城の際には有力町人として萩に入り、町づくりに力を尽くしました。国の重要文化財に指定されています。
松江城の北側堀沿いに、長屋門、塀が続き、松江でも最も城下町らしい面影を残す武家屋敷。塩見縄手と呼ばれるこの地域は、江戸時代、中級武士の屋敷が建ち並んでいたところで、その中で唯一、当時のまま保存されているのがこの屋敷です。松江藩の中級武士が屋敷替えによって入れ替わり住んだ所で、松江市の文化財に指定されています。塩見縄手は、「本の道100選」に選ばれている四季折々に様々な姿を見ることができ、旅人心を癒してくれる空間です。
三之瀬エリアは江戸時代,朝鮮通信使が立ち寄ったことで知られる歴史ある港町です。現在は,ユネスコ「世界の記憶」にも登録された巻物や,古伊万里の名品など多くの見応え溢れる資料見られます。また,エリア全体が一体的に石畳に沿って整備されており,一帯はまるで庭園のような雰囲気。日本文化の風香る瀬戸内海をバックに,歴史ロマンに浸ることができます。
平安時代、京都・下鴨神社の荘園として栄えた歴史から、「安芸の小京都」と呼ばれる竹原。そのシンボルといえるのが、落ち着いた風情を漂わす国の重要伝統的建造物群保存地区にも選定された町並み保存地区です。製塩地として飛躍的に発展した江戸時代、豊かな経済力を背景に頼春水・春風・杏坪の兄弟、また、頼山陽ら、多くの優秀な学者を輩出しました。
塩田と町人文化の隆盛が生んだ重厚な家々は、今日まで往時の姿を伝えています。
祇園は東は八坂神社、南は建仁寺、西は鴨川付近、北は新橋通の広い地域の名。鎌倉時代から祇園社(八坂神社)の門前町として開けたが、江戸時代からは遊興の町として発展。花街を中心に高級料亭やスナックが密集して一大繁華街になっている。 祇園は、国の伝統的建造物群保存地区に指定されています。
熊川宿は福井県三方上中郡若狭町にある 若狭と京都を結ぶ旧鯖街道の宿場。若狭町熊川宿伝統的建造物群保存地区の名称で国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。賑やかだったころの宿場町の面影を今に伝える全長1キロ余の街道は、宿内を流れる前川と、雪国ならではのベンガラ塗りの家並みが印象的。
大津市坂本地区は、比叡山系の東麓で、琵琶湖の西岸に位置し、古来より比叡山延暦寺・日吉大社の門前町として発展してきた。安土桃山時代から江戸時代にかけて、比叡山上で修行を続けていた僧が高齢となって、天台座主から山麓に里坊(隠居所)を賜った。この里坊群が当地において独特の歴史的空間を形成している。里坊の建物と庭園、穴太衆積みの石垣などが、緑深い樹木や清らかなせせらぎなどと共にすぐれた歴史的景観を維持している。この里坊群を中心とした28.7ヘクタールが平成9年10月31日に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。
1585年、豊臣秀次によって琵琶湖の東岸に位置する八幡山に八幡山城が築かれた。八幡地区は八幡山の麓に建設された城下町を起源とする。1590年には京極高次が入城するが、豊臣秀次の失脚に伴い、八幡山城は築城から10年足らずの1595年に廃城。以後の八幡は東海道と中山道と北国街道が交差する交通の要衝である近江国の地の利を生かして商業地として発展、繁栄した。碁盤目状の旧市街を南北に走る新町通り周辺と永原町通り周辺、北の八幡堀の畔には、商家・町家・土蔵といった近世建築の連続性が高い町並みが現存する。選定地区周辺には、建築家ヴォーリズの設計した近代建築物も多い。
美濃市美濃町伝統的建造物群保存地区は東西約400メートル,南北約220メートル,面積約9.3へクタールの範囲で,江戸時代に形成された上有知の歴史的市街地のほとんどを占めている。保存地区では目の字型の街路に沿って短冊形の屋敷地割が連続し,主屋・付属屋・土蔵等の伝統的建造物が密度濃く残っている。目の字型の区画の中央にはかつて割残し状の土地が存在していたが,現在では,屋敷地として細分化されている。
岩村は江戸時代に東濃地方の政治・経済・文化の中心として栄えた城下町。保存地区は城下町の町家地区として形成された町の形態と近代の発展課程を伝える町家群が周辺の環境と一体となった東濃地方の商家町として、特色ある歴史的景観を良好に伝えている 。
合掌造家屋は59棟あり、幕末から明治時代の初頭にかけて建築されたものがほとんどである。合掌造は切妻[きりづま]の茅葺屋根に特徴があり、この地域が豪雪地帯であることから屋根は急勾配になっている。また、養蚕のため屋根裏を2〜3層、規模の大きな家屋では4〜5層に造って効率的な利用をしていた。
江戸と京都を結ぶ中山道は、山深い木曽路を通ることから木曽街道ともよばれていました。中山道六十九次のうち江戸から数えて四十二番目の宿場となる妻籠宿は、中山道と伊那道が交差する交通の要衝として古くからにぎわいをみせていました。
城下町の中心、商人町として発達した上町、下町の三筋の町並みを合わせて「古い町並」と呼んでます。出格子の連なる軒下には用水が流れ、造り酒屋には看板ともいわれる杉の葉を玉にした「酒ばやし」が下がり町家の大戸や、老舗ののれんが連なっています。
石造りの瀬戸川沿いを、右手に白壁土蔵街、左手には「水呼びの亀」が守る円光寺を見ながらのんびりと散策。飛騨古川の象徴的ともいえる景色が続きます。瀬戸川を悠々と泳ぐ1,000匹もの鯉に餌をあげるのも散策の楽しみのひとつ。絵になる町並みで記念写真を撮りながらじっくりと歩きたくなる道です。
現在の足助の町並みは、この地区で安永4年(1775)に起きた大火以降に再建されたと考えられ、今も町並みには江戸時代中期から明治末までに建てられた建物が数多く残ります。足助は、尾張・三河から信州を結ぶ伊那街道(中馬街道)の中継地であり、物資運搬や庶民通行の要所として栄えた在郷町です。
有松は、慶長13年、東海道の鳴海宿と池鯉鮒宿の間に尾張藩によって開かれました。東海道を往来する旅人の土産物として絞り染め(有松絞り)が考案され、以降、有松絞りとともに有松のまちは発展しました。天明4年の大火により村のほとんどが焼失しましたが、尾張藩の援助もあり、20年程でほぼ復興したと伝えられます。
難所の鳥居峠をひかえて「奈良井千軒」といわれ、木曽十一宿の中では最も賑わった宿場です。町並みは国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されており、往時の面影を色濃く残しています。今までにたくさんの賞を受賞してきたこの宿場は、連続テレビ小説「おひさま」の舞台にもなり、日本のありのままの美を感じることのできる地として、毎年国内外から多くの人が訪れ、この歴史的な宿場に魅了されています。
大内宿は、福島県南会津郡下郷町大字大内にある、江戸時代における会津西街道の「半農半宿」の宿場の呼称。明治期の鉄道開通に伴って宿場としての地位を失ったが、茅葺屋根の民家が街道沿いに建ち並ぶ同集落の通称、あるいは観光地名として現在も受け継がれている。1981年に重要伝統的建造物群保存地区として選定され、福島県を代表する観光地の1つとなっている.
重要伝統的建造物群保存地区に選定されている「武家町角館」。江戸時代初期の1620年に芦名氏が大規模な都市整備を実施した際に城下町を180度移転している。のちには佐竹北家の城下町として栄え、現在の保存地区は、その武家町のほぼ中央、上級、中級武士たちの住んだ町並みだ。 現在、公開している武家屋敷は6軒。建て替えたり、お屋敷がずらりと並んだ町並みは、当時に一気にタイムスリップしてしまう。しだれ桜などもあり、多くの観光客が訪れる。
伝統的建造物群保存地区は,函館山山麓から港へ向かう斜面地に広がる西部地区の東端に位置しています。旧税関敷地に近い港際から元町公園に至る,幅36メートル,長さ270メートルの坂道である基坂から,旧函館区公会堂の一画,さらにハリストス正教会の一画を経て大三坂を下り,港際の煉瓦倉庫群の一角に至る延べ約1.5キロメートルのコの字形の道筋に沿った町並みです。